沖縄の「怒りの碑」を読む
このところ、私の思考は沖縄の周りをグルグル回っているようだ。先月、取材で5日間ほど沖縄を訪れた。その取材で、十数人の方々に話を聞いた。その言葉が、今も頭の中に響いている。
ある雑誌の依頼で原稿にまとめてはみたが、紙数に限りがある。書ききれなかった言葉が、出口を求めて私を責めたてる。だからここに書こうと思ったけれど、約束した雑誌に発表する前に、それはできない。しかし、今回はどうしても、沖縄について触れておきたい。
そこで別の視点から、沖縄を見る。
沖縄県宜野湾市の米軍普天間基地をめぐる問題は、戦後日本の歴史の、極めて重大な転換点になる。ここで普天間基地「移設」のための「代替基地」なるものが、沖縄県内に造られるようなことがあれば、それはもう、「日本国民を守らない」「国民を根底から欺く結末」という意味において、日本政治の終わりである。もし逆に、普天間基地全面「返還」が実現するならば、それが初めて自立した日本政治の姿を見い出すことのできる出発点になるだろう。
それほどの問題だと、私は思うのだ。
普天間基地「移設」「代替基地」と普天間全面「返還」と私は書いた。なぜこれらの言葉にカギカッコをつけたのか。
普天間基地に関しての当初の日米合意は、普天間基地の「移設」などではなかったのだ。1996年の日米合意では、単に「返還」としか表現されていない。それがなぜ普天間基地の「移設」となったのか。なぜ「代替基地」が辺野古に造られるなどという案が出てきたのか。
それは実は、1960年代に青写真まで作られていた米側の「大浦湾・辺野古地区米軍軍港基地計画」の復活だったからにほかならない。
この計画は、良好な軍港と市街地を避けた巨大な航空基地計画を総合した、アメリカにとってはのどから手が出るほどに欲しいものだった。しかし、当時の沖縄はまだ日本復帰以前で、米軍政下にあった。したがって沖縄では日米安保条約も適用されておらず、基地建設費は当然のことながらアメリカ側の負担だった。しかも、当時のアメリカはベトナム戦争における戦費の増大に苦しんでいたし、ドルの価値低下でとてもそんな負担には耐えられなかった。そこでこの計画は一旦、頓挫する。
1995年の米兵による少女暴行事件で、沖縄県民の反米軍基地感情は沸騰、それへの対処策として当時の橋本龍太郎首相が米側と交渉し、世界一危険な軍事基地と言われていた普天間基地の「返還」に合意した。ところがここから、例によってアメリカの意向を忖度することが外交だと考えている外務省や防衛庁(当時)、それにゼネコンとその意を汲む建設省(当時)の官僚たちの暗躍が始まる。
しかもそこに、思いやり予算という金づるを手放すまいとするアメリカ側の思惑が一致、辺野古沖海上案が浮上した。つまり、本来は「返還」であったものが、日米政府や官僚たちの手の中で「移設」へと姿を変えて行ったのである。
普天間基地問題とは、すぐれて「どういうプロセスで基地を『返還』させるのか」という問題なのである。「返還」という言葉に「代わりのものと引き換えに」という意味などない。政治の言葉は厳格でなければならない。
事実、2005年の米軍側の工程表(いわゆるロードマップ)によれば、沖縄の海兵隊のほとんどは、アメリカの世界戦略変更に伴う米軍再編によってグアムへ移転することが決定済みなのだ。
ほとんどいなくなる海兵隊のために、普天基地よりももっと広大な新軍事基地を建設するという、誰が考えても矛盾するような案を糊塗するために、今度は「抑止力」なる言葉を、きちんと内容規定することもなく使い始めている連中がいる。
あなたは「抑止力」の中身をきちんと知っているか? 誰にでも納得のいくように説明できるのか? 主張する政治家や評論家、学者などの胸倉をつかんで、そう問い糾したくなる。
ある碑文について書こうと思う。
私は、取材旅行の最終日に、沖縄本島最北端の辺戸岬を訪れた。那覇から車で3時間以上もかかる場所だ。沖縄にしては寒い日で、うらぶれた岬には、観光客の姿はなかった。
そこに「祖国復帰闘争碑」という石碑が立っている。私はかつて2度この地を訪れているけれど、今回もう1度、あの碑文をどうしても確かめておきたかったのだ。
その碑には、こうある。
『祖国復帰闘争碑』
全国の そして世界の友人へ贈る
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
鉄の暴風やみ 平和のおとずれを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日
サンフランシスコ「平和」条約第三条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
しかし独立と平和を願う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
二七度線を断つ小舟は船出し
舷々合い寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まれている 土こそ
辺土区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
まして勝利を記念するためにあるのでもない
闘いを振り返り 大衆が信じ合い
自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり
人類の永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある
普通の感覚ならば、この碑文は熱すぎる。少し気恥ずかしく感じる人もいるだろう。たとえば、小説の一節にこのような文章を見出したら、ふっと息を吐き出してページを閉じてしまうかもしれない。
しかし、強風吹き荒び、潮が舞い上がる絶壁に立ってこの碑文を読んでいると、私の心は震える。今また沖縄に、この碑文は甦りつつあるのではないか。
ジリジリと身を焼くほどの怒り、叩きつけたくなる言葉、受け止めてくれという切なる想い。普段なら地に埋もれそうな硬質な言葉たちが、ここでは読む者に突き刺さる。
かつて沖縄はアメリカ軍政下にあった。軍政は苛烈を極めた。日本国憲法下の権利も恩恵も、沖縄県民には無縁の夢だった。米兵の犯罪にどれほど苦しめられても、日本の法律は適用されなかった。沖縄は日本でありながら、日本国憲法の枠外の地だったのである。
その状況に抗して沖縄の人たちは、「沖縄県祖国復帰協議会」を結成し、軍政からの脱却、つまり日本国憲法下への復帰を訴えた。それが実現したのは、1972年5月25日のことである。だが、この「復帰闘争碑」が建てられたのはそれから4年後、1976年のことだった。
なぜ、復帰直後ではなく4年後だったのか?
碑文にあるように「権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声」は確かに沖縄全土に響いた。しかし、それはやがて「県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された」ことへの怒りに転ずる。「軍事強化」、すなわち米軍基地の強化拡充の現実が、日本復帰後の沖縄県民を、なおも苦しめる。
「祖国へ復帰することによって、米軍基地の重荷が多少なりとも軽減され、本土並みの人権回復がなされるだろう」という沖縄県民の希望を、日米両政府は見事に裏切った。裏切りと、その裏切りへの怒りを記憶に留めるためにこそ、この碑は建てられた。だから、復帰後4年を過ぎた時点で、沖縄の人たちはこの碑を建立せざるを得なかったのだ。
「人類の永遠に生存し 生きとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある」という言葉で、碑文は締めくくられている。だが、その警鐘は日米政府に届いたか。いやむしろ、警鐘に耳塞ぎ、ふたたび新基地を沖縄に押し付けかねない動きが政府内から出始めている。それが現状ではないか。
この碑文が甦ろうとしている。もう一度、あの闘争に火をつけなければならない現実が、目の前にある。
4月25日、沖縄県読谷村運動広場で「普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民大会」が開催される。10万人規模の大集会になるだろうと言われている。それほど、沖縄の怒りは大きいのだ。
沖縄の怒りを孤立させてはならない。最初に記したように、それは独り沖縄の問題ではなく、日本の政治のこれからに関わってくる最重要な問題だと思うからである。
なお、前記の「祖国復帰闘争碑」の碑文は、碑の裏面に記されているが、復帰協議会第3代会長の桃原用行氏が起草し、同じく第6代事務局長だった仲宗根悟氏が揮毫したものである。
2010年03月29日
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