2010年12月03日

活字の海を漂って(37)=鈴木 耕

ある小冊子を読む

 手許に1冊の小冊子がある。
 『浜教組教文ニュース 179』(2010年4月1日発行)で、『中学校歴史資料集』というのがこの号のタイトルである。A5判で42ページの薄さだが、中身は充実している。
 これは、横浜市教職員組合が発行しているもので、いわゆる労働組合通信の一種だろう。しかしこの179号は、ある問題を正面から取り上げている特集号だ。これが本気で面白い。いや、面白いというより、大きな問題提起になっているのだ。
 目次は、以下のような章立てだ。

1 室町時代の民衆と一揆
2 江戸時代の身分制度
3 大日本帝国憲法
4 日清戦争
5 日露戦争 
■コラム 日本海海戦は日本海軍をどう変えたか
6 アジア太平洋戦争

 「はじめに」という文章の冒頭に、こう書かれている。

 <2009年8月、横浜市教育委員会は、2010年度から使用する中学校教科書採択において、8区にわたり自由社版歴史教科書を採択しました。その際、二人の教育委員は18採択地区すべてで自由社版教科書票を投じました。このことは、教科書調査員報告にもとづいた「横浜市教科書取扱審議会の答申」をふまえないものであり、一律に特定の教科書を採択しようとする教育委員の恣意的判断によるものといわざるをえません。
 今田教育委員長は、「日本人に生まれたことを悲しませるような歴史教科書はダメだ」「日露戦争など、かなり愛情をもった記述がある」「教育基本法が改正され、教育を取り巻く状況が変わった」と述べています。06教育基本法の「我が国と郷土を愛するとともに」の次には「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が続きます。アジア諸国から、「人権を無視し、アジア太平洋戦争において日本が行った侵略・植民地政策を肯定し、戦争責任を否定した記述である」と批判される教科書が「他国を尊重する態度を養う」ものだとは到底思えません。(後略)>

 つまり、この小冊子は、“自由社版”中学校歴史教科書『新編 新しい歴史教科書』のあまりの酷さに危機感を持った横浜市の教師たちが、自由社版教科書を使わざるを得ない実際の授業の中で、では「どうすればきちんと生徒たちに歴史を伝えていくことができるか」を、悩みながら研究し、考え抜いた結果を記述したものなのだ。
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2010年12月02日

「零細出版人の遠吠え」から(43)=田悟恒雄

列島を揺るがす南海の荒波

 小人カン居して…
 「尖閣ビデオ流出事件」で、神戸の海上保安官がUチューブへの投稿を認めました。
 この事件、もっぱら件の職員の行為が国家公務員法の守秘義務違反に当たるかどうかといった議論が盛んですが、ここではちょっと違った角度から考えてみましょう。
 もしも問題映像の投稿が、もっと早い時点で行なわれていたらどうだったでしょう? 日本では、ひょっとして「中国けしからん!」の声がもっともっと高まっていたかもしれません。高揚するナショナリズムの矛先は、もっぱら中国へと向かったことでしょう。
 ところが、国会議員先生方の「試写会」(?)を経たこのタイミングでの公開は、人々の多くが「情報公開」をこそ求めていたということなのでしょう、批判の矛先を、拙劣な対応に明け暮れる日本政府へと向けさせてしまいました。
 一方、中国では、同じ映像を見ても「日本が中国漁船の進路を妨害した証拠だ」なんて見方も出てくる始末。センゴクさんらが心配された(?)映像公開そのものへの中国政府のリアクションも、拍子抜けするほど大人しいものでした。せっかくのご配慮もすっかり裏目に出、ブーメランとなって返ってきた格好です。
 つまり、この中国漁船衝突事件への対処をめぐり、中国政府は「内なる矛盾と不満」を外へ転嫁・発散させることに成功し、日本政府は「外なる事件」を内に抱え込んでしまった、ということになります。
 イヨッ、さすがは「大人」!!! ならばコチとら、「小人カン居して不善を成す」ってなところか?

 世間様にはご用心!
 おそらく「世論」の反発を恐れたのでしょう、「尖閣ビデオ流出事件」の捜査当局は結局、ビデオを流出させたとされる海上保安官氏を逮捕しないで取り調べを続けることにしました。
 で、まだ取り調べの最中だというのに、「SENGOKU 38」氏は「遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見てもらいたかった」とのコメントを発表します。当のセンゴク氏がいきり立つのも無理はない。
 さらに、これに悪乗りする者まで出てくる。「いつぞや政権を投げ出した無責任な政治家」なんていうと、このところ該当者続出なので誰のことやらわからなくなってしまいますが、安倍シンゾーなる人物が、「勇気をふるって告発した保安官」なぞと、まだ取り調べを受けている「38」氏をご自身のメルマガで激励する始末。「無責任の上塗り」というべきか、よほどの「強シンゾー」というべきか?
 どうみても、これはオカシイ。
 前にも述べたことですが、「世論」というのは、いつもいつも正しいわけじゃない。とくにジャーナリストたる者は、権力に対すると同様、「世間様」の言い分に対しても、眉によーく唾して熟慮した方がいい。
 1931年の満州事変に至る世論と新聞との怪しげな関係は、そのことの危うさを教えてくれました。

 真実の対立図式
 『週刊金曜日』11月12日号は「佐藤優責任編集」とあり、「沖縄と差別」を特集していました。
 この元主任分析官氏の分析視角はいつも新鮮で、「ウーム、なるほど」と唸らせられることしばしばです。沖縄県知事選の火蓋が切られたばかりに発行されたこの号では、2人の候補者のスタンス(主張のベクトル)についてきわめてユニークな論じ方をしていました。すなわち、仲井眞氏は「沖縄独立」を指向し、伊波氏は「日本ナショナリズムの強化」を指向している、と。この論には虚を突かれた思いがしました。
 どういうことかというと、米海兵隊普天間飛行場の「本土移設」を求める仲井眞氏の主張から出てくる二項対立図式は、「沖縄」対「本土」であり、「国外(グァム)移転」を求める伊波氏のそれは、「日本」対「米国」だ、というわけ。そのうえで、佐藤さんのみる「真実の対立図式」は、「沖縄」対「東京の政治エリート」だ、というのです。
 その点ではまったく異論はないし、「なるほどなぁ」と思わされるのですが、にもかかわらず、「外交や国防・安全保障問題については、高度の専門知識が必要とされる」ので、「『本土』の圧倒的大多数の人々」が普天間問題に関して無関心でいることは「決して悪いことではない」、とする佐藤さんの言い分には、留保せざるをえませんでした。

 日米同盟3連発
 沖縄県知事選で、米海兵隊普天間飛行場「県外移設派」の仲井真弘多氏が、「国外移設派」の伊波洋一氏を小差で破り、再選されました。
 もともと「辺野古移設容認派」だった仲井真さんが、県民世論の高まりに押されて、「沖縄差別」「県外移設」を口にしはじめたこと自体を責めることはできないものの、今回知事選の一番の争点になるはずだった「普天間問題」を後景に押しやった感は、やはり否めません。
 一方、知事選に候補を立てることもできなかった政権与党ですが、選挙結果が出るやさっそく、「沖縄振興策」=懐柔策の策定にうごめき出しました。「しかし、それは沖縄県民の堅い意思を見誤った楽観と言わざるを得ない」。この間、世論をミスリードしてきた朝日新聞社説ですら、そう書いています。
 で、その社説なのですが、「沖縄はあまりに長い間、日米同盟に翻弄され、ヤマトから『差別』されてきた」なんて続けるものですから、昨年来、何度も聞かされてきた「日米同盟絶対至上論」を少しは反省したのかと、つい誤読してしまいましたが、そんなことはありませんでした。

 「中国軍の海洋活動の活発化や北朝鮮の韓国領砲撃で、…日米同盟の重要性が改めて強く意識されている」「住民の理解と協力なしに、米軍基地の安定的な運用も日米同盟の強化も立ちゆかない」「一基地の問題が日米同盟全体を揺るがす」

 と、最後は、遁走するイタチのように、「日米同盟3連発」。沖縄を差別し、翻弄してきたのは民主党政権だけじゃない。本土メディアもまた、「日米同盟」を黄門様の印籠のように振りかざしては、差別し、翻弄してきたのではないですか?

 「もう変われんさ」
 仲井真さんが当選していちばん喜んだのは、北沢俊美防衛相だったよう。おそらくは内心、「しめしめ、これで辺野古移設がやりやすくなる」と考えてのことでしょう。一刻も早く「沖縄振興策」の協議に入りたい、と胸をふくらませます。
 で、あまりの嬉しさに、支離滅裂なリップサービス(?)まで飛び出します。知事選で「県外移設」を掲げた仲井真さんについて、「基地問題は全国的に考えるべきだ、と極めてまっとうな主張をしている」と、ヨイショ。
 おまけに、記者団から「鳩山政権で県民の県外移設への期待感が高まってしまったことにどう向き合うか」と問われても、「前政権がどういう期待感を与え、どう挫折したかは関係ない」と涼しい顔。あれれ、このお方、前政権でも防衛相を拝命なさっておられたのじゃないかしら?
 それがとんでもない「沖縄差別」だということを、思慮の浅い防衛相はいずれ知ることになるに違いありません。
 そんなお方に、鈴木耕さんの『沖縄へ』に登場する那覇のそば屋さんの言葉を贈らせていただきましょう。

 「沖縄の人間は、すぐ変わる。ずーっとそう言われてきたさー。でも、今回だけは変わらんと思う。もう変われんさ。ここまで来た、もう引き返せん。みんなそう思ってる。
 ここでまた新しい基地を認めてしまったら、『ほーら、沖縄の人間はやっぱりダメだ。また金に転んだ』と言われるさー。何度も何回もそう言われ続けてきたけど、ここで踏み止まれんようなら、これから先、もう何を言っても本土の人間に信用されん。そのいちばんの境目がいまさー」(p. 132)。
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2010年11月04日

「零細出版人の遠吠え」から(42)=田悟恒雄

電子書籍は出版界の「約束の地」か?

 「電子、電子へと草木もなびく」
 かねてより「絶滅」を危惧されていたわが出版界が、いよいよ危険水域に入りつつあります。「Google 騒動」への拙劣な対処について真摯な反省を欠いたまま、いつの間にか「電子書籍」へと雪崩を打っている。あたかもそれが、出版界の「起死回生」を約束してくれるかのごとく…
 深刻な危機の到来とともに、出版界はいま、「電子出版」花盛り。あちこちで似たようなセミナーが開かれ、書店の棚には「電子出版」関連の本や雑誌がめじろ押し。しかも、たいていが小手先の技術論です。「出版の構造的危機」なんてどこへやら、「電子、電子へと草木もなびく」といった塩梅です。
 あれっ、似たような光景、4半世紀前にも見ましたね? いわゆる「ニューメディア騒ぎ」です。出版界も「狂騒曲の積極的なアクター」となりました。「プリントメディアなんてもう古い。これからはニューメディアだ!」と。結局、いつの間にか騒ぎはうたかたのように消え去り、やがてインターネットに席を譲ることとなります。そして、誰もその失敗の責任をとることなく…
 実は、私めが無謀にも零細出版社を立ち上げたのも、この騒ぎと無関係ではありませんでした。「大手版元のみなさん、どうぞあっち(ニューメディア)の方へ行ってください。あとは私ら小零細版元が出版界を担っていきますので、ご心配なく」なんてうそぶいてね。
 そもそも出版なんて「マスプロ・マスセール」には馴染まない、有象無象が寄り集まって「枯れ木も山のにぎわい」よろしく多様性を競えばいい、それが「出版の原点」じゃないのか、とか夢想して…
 結局、大手版元は「あっち」へ行くことがなかったし、「枯れ木」がにぎわうこともなかったのですが、今度こそ大手版元のみなさんにはそうしていただいて、うまい具合に「出版界の棲み分け」ができたらなぁ、と思うんですがね。
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活字の海を漂って(36)=鈴木 耕

竹中労・著
『琉球共和国 汝,花を武器とせよ!』への想い


 仕事部屋にしている3畳間が、テレビでよくやる「片付けられない女の部屋」と化している。最初はここを「書斎」と称していたのが、もはやどう見ても「物置小屋」でしかない。
 どこに何があるのか、よく分からない。
 かなり大きな机と腰痛持ちなので腰にフィットする椅子(これがやけに大きい)、机上にはパソコンとプリンター、分厚い辞書類が7冊、資料のスクラップブックが3冊。そして、背後にこれもかなり大きな書棚。ただでさえ手狭な3畳間。そこにこれだけのモノがあるのに、現在は、書いている原稿用の資料本やパソコン出力のペーパー類、それに新聞の切り抜き、雑誌類、小さなコンポ(原稿書きのときのBGM用)やCDまで散乱しているのだから、目もあてられない。
 だから、何か必要なものを探そうとしても、それがどこにあるのか分からない。まるで、インディ・ジョーンズの宝探し状態。発掘しても発掘しても、お宝は発見できない。資料が見つからないから、原稿は捗らない。当然である。
 というわけでついに、年末恒例大掃除を待たずして、「書斎の威厳」を取り戻すべく、3畳間の小規模な片付けを敢行しようと思い立った。
 ところが、これが尋常ではなかった。なにしろ、本の下から思いがけない本が出てくる。失念していた資料までゾロゾロ顔を出す。
 おっ、こんなところに探していたこの本があったぞ、ああ、あの原稿にこれを引用すればよかった、この前の原稿の中身は実はこれだったよな、チクショウー、なんでこの資料を使わなかったんだ、これがあったらもっといい原稿が書けたはずなのに…。
 後から後から、臍を噛むようなものが出てくるのだ。そこでつい、出てきた本や見つけてしまった資料を読み始めてしまう。片付け整理が進むわけがない。だから、いまだに「書斎」は「物置小屋」のままである。
 そんな片付け作業の中でもっとも残念だったのは、この文庫本を埋もれた本や資料の底から見つけてしまったことだ。うわあっ、この本を、忘れていたあっ!
 それが、『琉球共和国 汝、花を武器とせよ!』(竹中労、ちくま文庫)である。
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2010年10月06日

活字の海を漂って(35)=鈴木 耕

「俗情との結託」ということ

 なんだか、世の中キナ臭い。とくに中国を巡る報道は、やたらと煽り立てる大声の論調ばかり。その中で際立って多く使われるフレーズが「なめられるな」というもの。これがどうも、私には不快。
 
 私の大好きな(というより尊敬する)作家のひとりに、大西巨人という方がいる。その代表作のひとつが『神聖喜劇』(全5巻・光文社)、私の「ベスト10」に入る小説だ。これは、戦争小説というよりも、軍隊という組織内部の部落差別の不条理を、徹底的に抉り出した稀有な小説である。未読の方には、ぜひお薦めしたい。凄い作品であることは保証する。いやしかし、私はここで『神聖喜劇』について書こうというのではない。
 その大西巨人に「俗情との結託」という言葉がある。これは、野間宏の小説『真空地帯』の批判論文の表題として、大西が使った言葉である。以降、これは一種の文学批評用語として一般には理解されてきた。つまり、通俗的な民衆感情(俗情)におもねる形での文学表現への批判と考えていいと思う。
 なぜかこのところ、その言葉がしきりに我が頭に浮かぶのである。

 むろん、文芸批評を書こうなどと思っているわけではない。ただ、最近の政治家たちの言動やメディアの論調を見聞きしていると、“俗情におもねる輩”の跋扈振りにいささかウンザリする。それだけのことなのだ。
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2010年10月01日

「零細出版人の遠吠え」から(41)=田悟恒雄

国家権力の腐敗と「洟垂れ小僧」のお粗末

 特捜検察は「正義の味方」なんかじゃない!
 「国家権力の腐敗」は、ここまで来てしまったのか、というのが実感です。さきごろ郵便割引制度をめぐる偽証明書発行事件で、厚生労働省元局長・村木厚子さんに一審無罪判決が出たばかりですが、これが特捜検察の「ずさん捜査」どころか、そもそも「でっち上げ事件」であったことが次第に明らかになりつつあります(けさの朝日新聞)。
 村木さんの元部下・上村被告宅から押収したFDに入っていた関係文書の最終更新日時を、検察自作のストーリーに合うように書き換えたというのです。しかも、「遊んでいて、誤って書き換えてしまった」なんて、「洟垂れ小僧の言い訳」みたいなことをしゃあしゃあと言ってのけているのが許せない。
 自分らの出世のために、できるだけ大きな「事件」を創作して、「手柄」を立てる。「捜索」じゃなくて、「創作」ですよ! 罪のない人を陥れるわけですから、泥棒よりよっぽどタチが悪い。「秋霜烈日」の権威もすっかり地に堕ちたものです。
 元はといえばリベルタ子も、「検察、とりわけ特捜は正義の味方」と信じてやまなかったことを、白状しておきます。そんな「信心」が最初に崩れたのは、1971年に発覚した「沖縄密約事件」でした。
 「国家機密の漏洩行為」が問われた審理では、特捜検事が起訴状に挿入したフレーズ「情を通じて…」ばかりが独り歩きし、肝心の「密約の真相究明」はどこかに吹っ飛んでしまいました。おまけに、この一文を入れた元検事(のちの民主党参院議員)が、そのことを自慢気に吹聴するのを読んで、開いた口がふさがりませんでした。
 そして、1986年発覚の「現職警察官電話盗聴事件」です。検察は最終的に犯人の警察官を起訴猶予にしたのですが、その理由がふるっています。
 曰く、「実行行為者は組織の末端で上部の指揮命令に従わざるをえない立場に置かれていて、その責任は比較的小さい」。また曰く、「個人的利得をはかった犯行ではない」。またまた飽きずに曰く、「末端の行為者が黙秘しており、指揮系統など組織的犯行の深奥のところがわからない。末端の行為者のみ罰するのは公平を失する」と。
 どう考えても検察は、信ずるに足る機関ではありません。
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2010年08月31日

「零細出版人の遠吠え」から(40)=田悟恒雄

著者の「遺書」& 訳者「最期の問いかけ」

 『ふたつの戦争を生きて』
 60年も前の「戦争の記憶」が、そのまま放っておけば年々風化するのは、古今東西、ある意味当然のこと。そんななか、「若者たちを信じ…若者たちに知ってほしい」と、みずからの稀有な戦争体験を語り続けた元イタリア・レジスタンス闘士、ヌート・レヴェッリ(Nuto Revelli)。
 さきごろ翻訳出版されたばかりの彼の第9作『ふたつの戦争を生きて:ファシズムの戦争とパルチザンの戦争』(Le due guerre、志村啓子訳、岩波書店)を一気に読みました。
 訳書副題が示すように、著者は、まずはファシスト将校としてナチス・ドイツの対ソ侵略戦争(「バルバロッサ作戦」)に従軍。凄惨な敗退行を経て、イタリア北西部ピエモンテ州クーネオに帰郷。一転して、こんどは銃口を反対に向け、対独レジスタンス闘争に加わります。
 1922年のムッソリーニの「ローマ進軍」当時のイタリアの若者たちがファシズム運動に吸い寄せられていく様子、これまでとかく同一視されがちだったファシストと軍隊との微妙な関係、ドン河河畔の平原の前線に配備されたイタリア「山岳兵」たち(!)、当然の帰結として、甚大な人的損害を被っただけで吹雪の中の敗走を余儀なくされた軍隊 etc. …の一部始終が描かれます。
 そんな敗走の途上で、ファシズムと軍上層部に対するレヴェッリの疑念と不信は募り、ついには「軍隊との決別」を誓います。と同時に、そこまでは客観性を重んじる歴史書(戦史)風だった本の叙述も、何か吹っ切れたように、ここからはガラッと趣を変えます。たとえば「わが軍」のように、「われわれ」(Noi)で書かれることの多かった記述が、著者自身の思いをストレートに表出する「私」(Io)へと変わり、読者への訴求力もいっそう強まったように思えます。
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2010年08月30日

活字の海を漂って(34)=鈴木 耕

メディア産業における「調査報道」と「企業内抵抗」

 朝起きて、真っ先に開くのが東京新聞の「こちら特報部」です。
 さて、本日はどんな記事が載っているのかな?と、少々ワクワクしながらページをめくります。それほど、最近の東京新聞、期待に応えてくれていますねえ。
 今月に入ってからでも、「朝鮮戦争に参加した日本人」の話や、「調査捕鯨に名を借りた捕鯨事業の疑惑」など、かなり突っ込んだ報告を行っています。もちろん沖縄については、「沖縄独立論」や「沖縄の普天間飛行場移設問題」など、そうとう粘り強い取材を基に、調査報道を繰り返しています。信頼性も高い。

 ニュース報道の速報性という面で、テレビが新聞から首位の座を奪いましたが、今度はそのテレビが、ネット通信によって速報の特性を奪われつつあります。そんな中では、新聞はかなり古い媒体というイメージを背負わされ、読者数も軒並み減少の一途です。その衰退の歯止めは、「調査報道」の充実しかないと、私は思っています。
 かつて私が所属していた出版界などは、切ないことですが、調査報道の欠片も見えなくなりました。本来は、新聞が報じたニュースの裏側をじっくり調査取材して、そのニュースの裏側に潜む本質を暴き、それを読者に伝えるのが雑誌の役割でした。時の権力者たちや大企業などが恐れたのは、実は新聞やテレビではなく、週刊誌を含む雑誌記事の執拗な追及と告発だったのです。
 しかし、その役割は終わりました。というより、出版社がその役割を放棄してしまったのです。硬派の雑誌はほとんど姿を消し、週刊誌はいまや芸能スキャンダルにその主眼を移してしまったようです。それらの雑誌を主たるステージに活躍していたノンフィクション・ライターたちは、いまや仕事の場をほとんど失っています。
 むろん、出版社も営利企業である以上、利益の出ないノンフィクションなどに取材費を投入することは難しいでしょう。しかし、それがなければ単なる「娯楽産業」になってしまいます。ひたすら若手芸人たちの大騒ぎを“バラエティ”と称して流し続けるテレビの惨状を見れば、それはよく分かるでしょう。
そういう現状の中で、東京新聞のガンバリは賞賛に値するものと言っていいでしょう。少なくとも私はそう思っています。

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2010年08月05日

「零細出版人の遠吠え」から(39)=田悟恒雄

メディア現場に垣間見る「組織人」の悲しい運命

 「ETV番組改変事件」
 NHKの「ETV番組改変事件」から、はや10年近くの月日が流れました。この問題について、元NHKの戸崎賢二さん(「放送を語る会」)が「NHKとは何か・その3〜『番組改変事件』は終わらない〜」を、同人誌『風船』第13号に寄せています。
 戸崎さんは、社会的存在としてのNHKの「制度」と、その成員の「意識」という「2つの側面の不備と欠陥が、深く関係しながら表面化し、不幸な結果をまねいた典型的な事例」として、関係者の証言を冷静に分析しながら、事件の深層を探ります。
 そして、たどり着いた1つの結論、「現場はNHK50年の歴史と向き合っていた」の意味するところは大きい。

「『ETV2001事件』は、若手右派政治家の台頭という状況を背景に、政治記者出身の幹部が支配するNHKの、強固な歴史的システムの必然的な発動として起こった。言い換えれば、現場の制作者たちが向かい合っていたのは、放送法成立以後のNHK50年の歴史そのものだったことになる。」(p.67)
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2010年07月22日

活字の海を漂って(33)=鈴木 耕

「極私的沖縄本」について

 しばらくお休みしてしまいました。数少ない読者の皆様に、お詫びいたします(ペコリッ!)。

 実は、沖縄に関する単行本を執筆中でした。それがようやく脱稿、校了まで漕ぎつけました。なんとか終了です。
 8月2日(月)に、リベルタ出版から発売になります。

 『沖縄へ 歩く、訊く、創る』というタイトルで、定価は1500円+税です。8月の“敗戦記念日”までにはなんとしてでも発売したい、という版元の嬉しい意向で、当初の予定より発売日を早めていただきました。
 ありがとうございます。リベルタ出版の田悟さま!
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